「子どもなんていらない」反出生主義だった私が、息子を持った理由

最近の私の発信からは想像しにくいかもしれないが、5年前の私は、
激しい男性嫌悪と反出生主義に染まった「ややこしい女」だった。

どうして子どもを持ちたくなかったのか。
そして、どうして子どもを持つ気になったのか。
今日は、その過去を振り返ってみようと思う。

端的に言えば、あの頃の私があの思考に染まっていった原因は――「不幸で、他責思考だったから」 だ。
そして、その不幸の原因を、全て「男のせい」「親のせい」にしていた。

まずは、当時の私のツイートをいくつか抜粋してみる。
残念ながら「子どもなんていらない」的な主張は、さすがに邪悪すぎて削除してしまったので見当たらなかった。
それでも、同じ時期にふつふつと不幸を嘆いていた形跡は、まだ残っていた。

これらのツイートからも分かるとおり、当時の私は男という存在を忌み嫌っていた。
忌み嫌うだけならまだしも、心の奥底にはふつふつとうずく加虐性すらあった。

ツイートには残していなかったが、母親への恨みも相当なものだった。
あいつらは「私を不幸の淵に追い込んだ奴ら」。
絶対に許さないし、いつか復讐してやる――そんなふうに本気で思っていた気がする。

今回は、当時の私をより正確に言語化するため、まずは「親のせい」「男のせい」 の二つの視点に分けて話そうと思う。


どういう思考回路で他責になっていたのか。
恥を忍んで、共有してみることにする。

不幸は全て「親のせい」

今思えば、母は私に似ている。
全てが短絡的で、見栄っ張り。
それでいて意志が弱く、他責思考。

母は、私が幼い頃から「ブスだ」とか「病気だ」とか罵って、私の心をズタズタにした。
自分の思いどおりに育たない私にいら立ち、「産まなかったら良かった」と何度も口にした。

彼女のメンタルの不安定さと、金銭的な不安定さにも振り回され、
私は正しく自尊心を育てることができなかったように思う。

最終的に風俗を始めるはめになり、その中で起こったある出来事。
それが決定的に母親を恨むきっかけだった気がする。

性病をこじらせ、腎炎になった私は、生まれて初めて、

母に電話で助けを求めた。


高熱が出て「救急車を呼ぶか、呼ぶならいくらかかるのか」と助言を求める私に、 「金がないなら死ぬしかないんじゃない」 と、そう母は言い放ったのだ。

「死ぬならそこはやめてほしい。事故物件になって賠償金がかかるし」
「自殺はやめてね。近所からいろいろ言われるし」

当時の言葉を、一語一句覚えている。
確かに――まあ、ひどい親ではあったな、と思う。

けっきょく、私は母から言われた言葉をこじらせて、全身整形までした。


けれど、いくら身近な人に褒められても、その瞬間、穴に潜りたくなるくらいには、自分の容姿に自信がない。 会食恐怖症にもなった。他人の前でご飯を食べるのも、いまだに苦手だ。

大人になってしばらくして、母は「虐待してごめんね」と言った。
でも、それで許せるようなもんでもない、というのが正直なところだった。

当時の私は、「顔面」を遺伝させたこと、自尊心を削り取ったこと、
私の人生がレールから外れてしまった原因の全てを――
「親ガチャ」のせいにしていた。

これ以上は控えるが、本当に、いろんなことがあった。
宗教、金、障がい、なんだかんだ。

だから私は、「生育環境」「遺伝」 という、最初のギャンブルに負けたと感じるようになった。
バトルロワイヤルの世界で、裸にフライパンを引き当ててしまったような――そんな気持ちだった。

不幸は全て「男のせい」

上述のように親を恨んだまま実家を出た私は、「親のせいでこんなことになった」 を口癖にしながら、「男」という存在に依存し始めた。

言い方を選ばなければ、こういう境遇の私にとって、男性はとても便利だった。

「私は泣くのが得意で 最初から慰めをあてにしていたわ」(Superfly『愛をこめて花束を』)
昔、Superflyがそう歌ったのを聴いて、「ほんまそれ」と頷いたのを覚えている。

若い穴と不幸話さえあれば、男は簡単に寄ってきた。
孤独を埋め、欲しいものを与えてくれた。

――けれど、そんなものでおびき寄せた関係は、当然のように薄っぺらい。
いとも簡単に、ほろほろと崩れていく。

「親のせい」で不幸になった私。
それをまるっと受け入れてくれない「男」。

私が暴れるたびに支えようとしてくれた男たちは、しだいに疲れ、愛想を尽かし、そして私を裏切った。 浮気され、ときには殴られ、自殺未遂もして。警察沙汰になったこともある。精神的にボロボロになった私は、またそれも全て「男のせい」 にした。

私は、男に裏切られたから鬱になった。
になったから、ちゃんと働けなくなった。

それに加えて、当時働いていた風俗という職種を通して、どんどん「男」という性別が嫌いになっていく自分がいた。 嫌いになりながら、男に依存をする。当たり前だが、それでは更に人生が立ち行かなくなったような感覚になる。

――全部、親と男のせいだ。

幸せになるための環境を与えてくれなかった親。
幸せにしてくれなかった男。

あいつらのせいで、私は幸せになれなかった。
あいつらが私を、幸せにしてくれなかった。

日に日にそんな思いが重なり、それを肯定してもらえる環境にいたことで、私の被害妄想はどんどん強固になっていった。

「男が憎いから風俗を続ける」――そんな矛盾した思考の中で生きていた。

その頃の私は、世界をどす黒いものだ と思っていた。

まあ、それはある意味、しかたがなかったのかもしれない。
風俗嬢という立場から見ると、この世界には明確な二面性がある。
そして、私は常にその「汚いほう」を突き付けられる側にいた。

盗撮、レイプ、なんちゃらかんちゃら――
ひととおりのことを経験した。

それでいて、家では「幸せな家庭」を築いているはずの客たちが、
私のような風俗嬢に会いに来る。

その矛盾に、心底うんざりしていた。

ある日、知らない薬物中毒の男に 「ケツの穴をなめろ」 と言われたとき、
ふと、頭の中で何かが静かに終わった。

「ああ、人生、終わったな」

こんなクソみたいな世界、生きている価値がない。

――親のせい、男のせい。
そうやって続いてきた恨みの対象は、ついに 「世の中」 へと移った。

私が不幸なのは、この世の中のせいだ。

……分かる。
今となっては、当時の思考回路の意味がまるで分からない。

だけど、それくらいこじつけてでも、何かのせいにせずにはいられなかったんだと思う。

そうして私は、「家族」と「親」を恨み、結果として「世の中」そのものを恨むようになった。
そうなると、反出生主義にたどり着くのも時間の問題だった。

幸い、私は「子ども」という存在が好きだった。だからこそ、「こんな世界に産んでたまるか」と強く思うようになった。

「不幸の再生産をするな」反出生主義だった頃の、根本的な考え

反出生主義にも、さまざまな考え方がある。
子どもという存在自体を忌み嫌い、罵詈雑言を浴びせるタイプもいれば、
私のように 「子どもが好きだからこそ、この世に産まない」 という論理で語るタイプもいる。

「不幸の再生産をするな。」

これは、私が過去の話をするたびに、反出生主義者たちから投げかけられた言葉だ。
事実、かつての私も、全く同じ考えを持っていた。

「自分を不幸にした、自分を幸せにしてくれなかったこの世界に、
私がいちばん大切に思う(であろう)我が子を産み落とすなんて、とんでもない。
生まれた瞬間から『不幸』しかないこの世界で、
最終的には『死』という最大限の苦痛へ向かわせることになる。
そんな無責任なこと、本当に子どもが大切なら、できるはずがない。
子どもを産む人は、よほど自分が幸せにする確信があるか、
もしくは頭が悪いんだろう。」

本気で、そう思っていた。

そのうえ、この世界には 「男」 という最悪な存在もいる。
そんな場所に、もし万が一娘でも生まれたら?
私には耐えられない。

そもそも、結婚なんてほぼ、「身売り」 じゃないか。

男のために1年かけて体をズタボロにして子どもを産み、
その後は家政婦のように男のために生きる。
たとえ愛する子どもがいたとしても、私には耐えられない。

いやだ。私は1人で生きていく。

こんなクソみたいな世の中で、信じられるのは自分だけだ。

――書いているだけで、呪われそうだが、これが当時の私の思考回路である。

ちなみに、当時の私は、表向きは普通の人間として生きていた。
この思いをむやみに人にぶつけることはなかったけれど、
そのゆがんだ価値観は、いろんなところににじみ出ていた。

例えば、このインタビューの一節――。

yuzuka ただ、「可哀想だ」といわれる要因も、やっぱりあると思っていて。例えば私は今、「子どもを産んで子育てができるか?」って言われたら、答えはNOなんですね。

その理由は、今、自分が経済的に満足な形で自立をしていないと思っているからです。子どもに充分な教育を受けさせてあげることができない。しっかりした子育てをしていく自信がない。って、どうしても思ってしまうんです。私と同じように、経済状況を考慮して子どもを諦めるって方、少なくはないとは思います。

そんな中で、林下さんのご家庭って、決して裕福ではない状態で、お子様を何人も産むという決断をしたじゃないですか。その時の考えとか感覚って、やっぱり世間とは少しずれている気がして。そのあたりがお聞きしたいんです。

ビッグダディを取材したとき、私の中には「貧乏なのに子どもを産むな」と彼を批判する人たちへの違和感があった。ちゃんと取材して、本当のところを確かめたい。そんな気持ちで話を聞きに行った。

でも、今思えば、その奥底には「どうして産むの?」という純粋な疑問が眠っていたのかもしれない。実際、ダディにはその本音をぶつけたし、彼は笑って受け止めてくれた。でも、もし相手が違ったら、そうはいかなかっただろう。

そう考えると、私が反出生主義に傾いていた理由も見えてくる。


そう、私は、相当やばい女だった。
今となっては笑い話だけど、当時は「こんなやつ、表に出しちゃダメだろ」と自分でも思うほど、凝り固まった考えを持っていた。

自分の不手際を全て他者のせいにできるその姿勢に、今となっては驚く。

とはいえ、そんな私も、今や一児の母。
それどころか、結婚相談所で「結婚、子どもはいいよ!」なんて啓発する立場にいる。

どうしてそこまで考えがひっくり返ったのか。
答えはシンプルだった。

――「他責思考だった自分に気づき、自責思考に切り替えたら、人生の見え方が変わった」のだ。

反出生主義から、「結婚相談所スタッフ」へ。なぜ、心境がひっくり返った?

他責思考だった自分に気づき、自責思考に切り替えたきっかけは、単純だった。

――生活が完全に破綻した。

人に頼り、人のせいにしていた私は、「自分で生きていく!」と息巻いていたものの、当然、言葉と実力は伴っていなかった。
当時付き合っていた男性の家を追い出され、なんとか借りたアパートで暮らし始めたものの、すぐに首が回らなくなった。

電気とガスが止まる。払えない。
最悪なタイミングで性器ヘルペスに感染し、尿を出すのもやっと。
保険証もないから、自費診療におびえ、病院にも行けない。

トイレットペーパーがなくなり、ティッシュがなくなり、最後にトイレを拭く布も尽きた。
携帯が止まり、駅前まで行ってWi-Fiを拾う日々。でも、電気が止まったせいで、充電すら満足にできなくなる。

ここまできて、ようやく「ヤバい」と思った。(マジで遅い)

――それでも、この時点ではまだ、「○○のせいでこうなった」と思っていた。

電気の止まった暗い部屋で、ひたすら誰かを呪っていた。
ついに、誰かのせいでここまで追い込まれた、と。

そんなときだった。
いつものように駅前のWi-Fiを拾って泣き言を送った相手——唯一と言ってもいいほど、私を見捨てなかった親友が、ひと言、バッサリと私を切り捨てた。

「どうしてこんな目に遭うのかな」と泣く私に、彼女は冷たい声で言った。

「自分のせいだよ。ゆずかって、自分に甘いよね。そんなんじゃ、一生うまくいかないと思うよ。だって今までもずっと、誰相手でもうまくいかなかったじゃん。それって誰かのせいじゃなくて、あなたのせいだよ」

一瞬、「え? なんで急にそんなひどいことを言うの?」と腹が立ちそうになった。
でも、彼女はこれまでずっと私を支えてくれた人だ。
非の打ちどころのない、ただただ誠実な人。

そんな彼女が、こんな言葉を投げる。
ならば、これは私を傷つけるためじゃなく、事実としての指摘なのかもしれない。
さすがに、彼女の常識を疑ってまで自分を正当化することはできなかった。

私は再び、真っ暗な部屋で「どうしてこうなったのか」を考えた。

――親のせいだ。
――男のせいでもある。

でも、本当に?
本当に、それだけなのか?

冷静に一つ一つ分解してみると、少なくとも今目の前にある不具合の全ては、「自分」のせいだった。

確かに、生まれた頃は親ガチャの影響もあったかもしれない。
でも、そこから家を出て、自分の足で立ち、数々の選択をしてきたのは――私だ。

それに気づいた瞬間、視界がクリアになった気がした。

「親のせい」「男のせい」「世の中のせい」。
そう考える限り、私はどうすることもできない。
用意された最悪な土台の上で、ただひたすら不幸を嘆くしかない。

――でも、「自分のせい」だったら?

自分さえ変えれば、この世界はもう少しマシになるのではないか?

そこからは、徹底的に「自責」で考えるようにした。
頭を下げ、周囲に素直に助けを求めた。
不健康な思考に陥りがちな夜の世界も辞めた。

そうすると、あれよあれよという間に、「変わらない」と思っていた不幸が、どんどん払拭されていった。
「どうしようもない」ことがほとんどなくなり、「どうにかなる」と思えるようになった。

特別な魔法や武器を与えられたわけじゃない。
だけど、「全ては自分の手のうちにある」と気づくこと――
それこそが、この世界を生き抜くうえで最も必要な装備だった。

世界は美しい

そうして自責思考に切り替えてから、私の人生は好転した。
そして、好転した人生の中で、私は気づいた。

――この世界は、美しい。

あれだけ真っ暗な場所にいた私が、これほどまでに美しい世界にたどり着けた。
ならば、もしも子どもを産んだとして、その子も、きっと同じようにこの景色を見られるはずだ。

実はそんなある日、前に見た住宅街を歩くタイミングがあった。

その日もそこにはやっぱり幸せのかおりが漂っていて、ふんわりと周囲をつつむ料理の香りの中、心地よい風が洗濯物を揺らしていた。

あの時あれだけ苦しかったその光景。

そんな光景を見て、その時の私は、「美しい」と思えた。

「美しい」と、思えたのだ。

どれだけ辛いことがあっても、誰かに傷つけられても、コンプレックスがあっても、一度は人生を諦めたとしても、それでもこうしてこんなに優しくて美しい景色を、美しいと感じることができる。ちゃんと心で感じられることができるのだと思うと、前とは違う涙がでそうになった。

辛かった部分も含めた自分自身の人生が、全て愛おしくていじらしいものに思えたのだ。生きていてよかった。

その時に私ははじめて、「私も幸せになれたのかもしれない」と思った。

特定の人はいなかったし、全てがうまくいっているわけではなかったけど、それでもなんとなく、美しい景色の中にちゃんと溶け込むことができる自分がほこらしかった。

その頃からかもしれない。結婚や出産を前向きに考えるようになったのは。

純粋に、「こんなに美しい景色を、将来生まれた自分の子どもにも見せてあげたい」と思えた。

『埋まらないよ、そんな男じゃ』(著: yuzuka)より 

もちろん、苦しい時期もあるだろう。
裏切られることも、絶望することもあるかもしれない。
でも、大丈夫だ。

特別な教養はないし、与えられる優れた遺伝子もないかもしれない。
だけど、どん底から這い上がって「なんとかなる」をこの重みで伝えられる母ちゃんは、たぶん、私くらいだ。
それに――今の私なら、誰かのことを守ることができる。

けっきょくのところ、「自分で自分を幸せにできたこと」 で、ようやく誰かを幸せにする覚悟も、自信も持てるようになったんだと思う。

思い返せば、過去の私は、その自信がなかった。
だから、言い訳をしていただけなんだ。

「私が幸せになれない世界で、誰かが幸せになれるわけがない」――
あの頃の私は、ただ、そう思い込んでいたんだろうな。

最後に

最後に、ちょっと余談を。

「まとも」になった私は、過去を振り返る旅に出た。
忌み嫌っていた、良い思い出のない元カレや母親に、積極的に会いにいくようにしたのだ。

おもしろかったのは、どの人も私と会うなり、開口一番で言うことが同じだったこと。

「ゆずか、あのときヤバかったよね」

「俺(私)、本当に大変だったよ」と、しわの増えた顔で、みんなが笑う。

その瞬間、醜いはずだった、あえて残しておこうと決めた「最悪な記憶」の隙間から、「良い思い出」が不思議なくらい蘇ってきた。

この人たちは、決して悪い人じゃなかったな。
私は、自分の不幸を誰かのせいにしようとして、記憶をねじ曲げていたのかもしれない。

そう気づいたとき、私は本当の意味で呪いから解放された。

世の中は、そんなに悪いものじゃない。
それを全力で理解できたことが、私が変われた一番の理由だと思う。

そして、今の私は――

2歳の絶賛イヤイヤ期の息子と、ちょっと分からずやだけどユーモアのあるおもろい夫と、犬たちに囲まれて、めちゃくちゃ幸せに過ごしている。

あれだけおびえていた「子どもを持つこと」。
でも、今となっては、何がそんなに怖かったのか、よくわからない。

息子が生まれたことで、美しい世界は、より美しくなった。
私たちが生きているこの世界は、本当に優しい。

誰かのせいにするのは、楽だ。
それに、本当に「誰かのせい」のときだってある。

だけど、「誰かのせい」にしたところで、いちばん深く傷を負い、生きづらくなるのは自分だ。
そのことに気づいてほしいな、と思う。

子どもを産まない選択自体は、何も悪いことじゃない。
事情がある人もいるし、それをとがめる権利なんて、誰にもない。

ただ、その選択の裏に、もし過去の私のような考えがあるのなら――
「この世界は苦しいから」「自分には幸せになれる自信がないから」
そんな理由で選ぼうとしているのなら、一度、考え直してみてほしいな、とは思う。

だって、そこから抜け出せたほうが、あなたは絶対に幸せだから。

yuzuka

P.S. この文章を読んで共感した人はこの曲聴いたらくらうと思います。