【編集長日記vol.1】育児と子育ては、「我慢」のうえに成り立つもの?

ママたちの「子育てが楽しい」は、自分を納得させるための言い訳?

「結婚や子どもは自由を奪う」と、本気で思っていた。

もともと恋愛体質だった私にとって、インスタントに胸を躍らせられる恋愛は人生の中心だったし、1人で夜中までバーで飲む時間や、そこでチヤホヤと褒められる経験は、私の人生には欠かせないものだった。

それは年齢を重ねても大して変わらず、むしろ需要が減るほどに「そういうもの」への欲は高まった。いつまでも若くありたい。性的に評価される対象であり続けたい。そんな思いは強迫観念的な要素を含んで、いたずらに日に日に強くなる。

人生の中で「結婚」にコマを進めた先人たちはみな、年甲斐なく「そういうもの」に憧れを持ち続ける私を横目に「『そういうもの』も、家族ができるとどうでもよくなるよ」なんて呆れていたし、「私ももう『そういうもの』はどうだっていいし、今が幸せだから」と笑っていた。

けれど、私はそんな彼女たちを見ても、全然笑えなかった。
それはある意味で嘆きに見えたし、「我慢のうえに成り立っている、自分を納得させるための言い訳に違いない」とすら思っていた。

暗黒の妊娠期間。お腹に我が子がいることが、想像できない。

そんな私が紆余曲折を経て結婚し、子どもができたのは30歳のときだった。
「紆余曲折」の中身は省略するが、その頃の私は子どもを持つことについて、「我慢をする覚悟ができた」状況だった。

「結婚や子どもが自由を奪う」という認識が変わったわけではない。だけどそれを我慢してでも、正しい道に歩みを進めたいと思った、というのが正しい表現な気がする。

「私」を第一優先にする人生はこれで終わり。ここからは「我慢」の人生だ。じりじりとそんな決意を滲ませながら、足繁く妊婦健診に通って足を開く自分がいた。

そこまでしても結婚して子どもが欲しかった理由を聞かれても、正直なところよくわからない。それらしい理由は浮かんでくるし、多分感動的なスピーチはできるけど、本音としてはどれも完璧にはしっくりきていない。

だけど私は子どもが欲しかった。
おそらく、あれが本能ってやつだった気がする。

とはいえ、晴れて結婚して妊娠しても、自由を切望する自分自身の「核」の部分が変わったわけではなかった。
それでもギリギリ怖くなかったのは、毎日浮かんでくる邪念をどうにかねじ伏せて、少しずつ母の顔になっていく自分が想像できたから。「今の私なら、きっと我慢ができるはず」「その我慢にも、きっと幸せを覚えられるはず」と、思えていた。

だけど実際には妊娠期間中の私はまだまだ幼くて、自分の中の「女」としての部分が削ぎ落とされていくことに、激しい抵抗感があった。

変わっていく体に絶望し、自覚を置いてけぼりにしながらみるみるうちに膨らんでいくお腹に戸惑う。


そこに可愛い我が子がいることなど想像ができない。時々自分の栄養をことごとく吸い尽くす恐ろしい存在のようにすら思えた。

誰もが「急に」母親になれるわけではない。

ある日の夜、私は人知れず泣いていた。

理解していたはずなのに、心よりも先に体が「母」になっていくことに着いて行けなかった。

何を食べてもつわりで吐き、体重は8キロも落ちた。
重たい腹を抱えてのそのそと裸になる。ふと、風呂場の鏡にうつる、げっそりして老け込んだ顔面と、肥大化した黒い乳首を直視したとき、私は突然恐ろしくなった。

これだけのものを犠牲にして、これからはもっと我慢を強いられて、妊娠出産にはそれだけの価値があるのか?

今更ながら、とんでもない領域に足を踏み込んでしまったような気がした。ジェットコースターの先端にくくりつけられているような、そんな怖さを感じる。徐々に上がっていく坂道の先には急降下が待っている。もう戻れない、逃げられない。

今思えば恐ろしい考えだが、私はそのとき無性に死にたくなった。

「やっぱり私は母にはなれないかもしれない」と泣き、そんな自分自身に心底絶望した。

お前が決めたことだろう。世の中の母親たちは、妊娠中のお腹を愛おしそうに撫でているではないか。
甲斐甲斐しく産後の準備をし、靴下を編み、モーツァルトを聴かせて慈しみ、毎日着実に優しい「母」になっていくじゃないか。

なぜ、私はそうなれないのか。

想像上の「理想的な母親になるまでの過程」を、自分は歩めていない。そんなふうに感じると、罪悪感で押しつぶされそうで、情けなくてしかたがなかった。

不安で泣いたあの日の夜のことを、今でも覚えている。

母になるまでの道は、「魔法」では無かった。

そんな、「キラキラ妊婦」とはいえない暗黒の妊娠期間を経て、私は無事に我が子を出産した。産み落として息子の顔を見た瞬間に思ったのは、喜びよりも先に、「本当に人間が入っていたのか」という驚きだった。

初めての世界で必死に息をする息子を見て、なぜだかわからない涙が止まらなくなった。

愛しい赤子を前に、「あの辛い日々はこの子のためだったのか」と思うと妙に納得ができて、感じていた黒い感情が分かりやすくキラキラと成仏していった。妊娠中に起こったすべてのことを、今ならあたたかく受け入れられる気がした。

とはいえ、である。


だからといって自分自身がすぐ、魔法のように「理想の母」になれたわけではない。
産んだ直後から毎日続く寝不足と、自分の時間を失った生活に適応するには、やはりそれなりの時間が必要だった。

忙しく過ぎていく日々の中、時々独身時代を恋しく感じたり、ひとりになりたいと思うような夜もあった。

「母親なのだから『我慢』しなければ」という意識が常にどこかにあって、その日々はそれなりに私を疲れさせたし、どこかのタイミングで「本当の私」が顔を出したら、慎重に積み上げてきたピンと張った意識が途端に緩んでしまうのでは?と、そんなふうに怖くなったこともある。

だけど、

そんな私をよそに、息子はぐんぐんと成長した。
しわくちゃだった顔は少しずつ表情を見せるようになり、泣いてばかりだったのに「わんわん」「ばいばい」と言葉を話すようになった。ミルクは食事に代わり、お気に入りはおしゃぶりから、車のおもちゃに変わった。

朝起きて部屋の片隅に高く積み上げられた積み木を見たときは驚愕した。
何気なく靴を渡すとひとりで履こうとしたときにも、驚いた。

私が仕事をしているとそっと近づいてきて、「どーぞ」とチョコレートをくれたこともある。

毎日毎日、息子はいじらしく私を愛し、すくすくと育っていく。

息子が私に笑顔を向けるたび、「負」の感情はまたたくまに飛んでいった。
ともに過ごす時間が長くなればなるほど、私の心にあった不安やささくれは治癒していく。

大丈夫、この子のためなら、なんでもやれる。

そんな強さが、私の中に芽生えていった。

あの日、私は「母」になった。

そうして毎日を過ごしていくうちに、息子は1歳7ヶ月になった。

最近の彼は絶賛いやいや期に突入して、1日の半分は泣き叫び、もう半分はケタケタと笑っている。

我が家には1日中我が子の声が響き渡り、それは時に癒しになり、時に私を困らせた。忙しい毎日だが、どうにかこうにか、駆け回るように日々をこなしていく。

そんな日常が続いた、ある日の夜。


息子に風邪をうつされて体調が優れなかった私はついに疲れ果て、夫に息子の寝かしつけを頼んで、久しぶりに1人でお風呂に入り、お湯に浸かることにした。

泣き声がしない静かな浴室は久しぶりだったし、泡立てネットを使って洗顔したり、時間を気にせずにシャンプーができたり、トリートメントを5分おけたりするのも、数ヶ月ぶりだった。

洗面所の電気を消し、真っ暗な浴室の中でじゃぶんとお湯につかる。


あたたかい湯船が私の体を包んだその時、私はようやく、母ではなく「自分」に戻れた気がした。

「やあ、久しぶり」

ご無沙汰だった自分自身と対面したら、どんな感情が湧き起こるのだろう。
本当の自分は、何を望んでる?無理はしていない?

そんな気持ちでじーっと聞き耳を立てて、「自分」の出方を伺う。

「あなたの本当にしたいことは何?今は無理をせず、全部教えてくれたって構わないよ。

ひとりで映画?ひとりで旅行?それともショッピング?飲みに行きたいとか?」

等身大の自分の本音を探ろうと耳を澄ませた。


だけどそのときに浮かんできたのは、意外にも全て「息子」に関することだった。

「どうせなら息子と見られる映画が見たい」
「そういえばトミカのぐるぐる駐車場みたいなやつ、買ってあげたいな」
「確かに飲みには行きたいけど、息子と会えないのかあ、やめとこう」

なんだよ、と笑ける。
せっかく自分1人になれたのに、考えることは息子のことばかり。

ああ、そういえばちゃんと眠れたかな。

あの子は私が手を握らないと、なかなか寝つかないから。

そこまで考えて、「あっ」と思った。
「『そういうもの』も、家族ができるとどうでもよくなるよ」

昔、友達に言われた言葉を思い出す。

いつのまにか私、「そういうもの」が「どうでもよく」なっている。


したいことを我慢して妥協してるんじゃない。
自然と心から、この子との人生を楽しんでいる。

それに気づいた瞬間、「母」としての心が、ようやく重たく疲れた体に追いついたような気がした。


子どもが生まれたら、自由がなくなるわけじゃない。
幸せがなくなるわけでも、やりたいことができなくなるわけでもない。

子どもが生まれたら、自分1人の自由なんて、どうでもよくなるんだ。
やりたいことが変わって、それに幸せを感じるようになる。

結婚や子どもは自由を奪う?

そう思っていた自分が、ばかみたい。
結婚や子どもは、私をもっと自由にしてくれるじゃないか。

素直にそう思えたとき、私はたまらなく幸せな自分に自覚して、涙が止まらなくなった。

たしかに1人も幸せだった。

だけど、家族がいる今の方が、うんと幸せだ。

重たい体も、忙しい日々も、悪くはない。

ふと、騒がしい足音が聞こえて、ガラッという音と共に真っ暗な浴室に光が入ってきた。
驚いて目を凝らすと、勢いよく浴室のドアを開けたパジャマを着た息子が、なぜかまだまだ元気そうに満面の笑みで立っている。

「ばー!ママ!」

その後を、困ったような顔で追いかけてくる夫。

「ママがいいんだって」

呆れた顔で「やっと1人になれたのに」と笑うそのときの私は、多分世界中の誰よりも幸せそうだった。

yuzuka

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