坂元裕二『ファーストキス』あらすじ考察|タイムリープの矛盾が映す、結婚のリアルと切なさ

坂元裕二の書く映画は、「自分のイタいところ」を刺される作品

「坂元裕二が、恋愛映画をやる」
そう聞くと、いつも新しい手品を披露されるのを待つような気持ちになる。

それは他のそういう映画を楽しみにするときに感じる「きゅんきゅんを待ち望む気持ち」とか、「未知の展開へのわくわくした感情」ではなく、今回はどうやって、どの角度から、ワシの心をえぐってくれるんや?という、半ば殺されるのを待って固唾を飲んで見守るような、そんな気持ちである。

坂本裕二が恋愛をやる。それも名前は「ファーストキス」。

ファンからするとこれはもう、とんでもないものに違いないとの確信があった。

坂元裕二は、自覚的に誰かの「イタい」ところを刺す。
見ないようにしていた自分の恥ずかしいところを、むき出しにされる。
予告ですでに流れていた「坂元節」は、明らかに「ファーストキス」の爽やかさではない。
「恋愛は良いところを探すことで、結婚は、悪いところを探すこと。結婚は相手の嫌なところが4Kではっきり見える」。

あ、これは自分の話かもしれない。ということで公開から数日たって、ようやく映画館に足を運んだのであった。

【ネタバレあり】坂元裕二の描く「男女のすれ違い」の秀逸さ

――あらすじ――
-もう一度だけ、会いたい人はいますか?-
結婚して15年になるカンナは、ある日、夫の駈を事故で失ってしまう。いつしか夫婦生活はすれ違っていて、離婚話も出ていたが、思ってもいなかった別れ。しかしカンナは、駈とこちらも思ってもいなかった再会を果たす。しかもそこにいたのは、初めて出会ったときの駈。
ひょんなことから、彼と出会った15年前の夏にタイムトラベルしてしまったカンナは、若き日の駈を見て思う。やっぱりわたしはこの人が好きだ。まだ夫にはなっていない駈と出会い、カンナは再び恋に落ちる。
時間を行き来しながら、20代の駈と気持ちを重ね合わせていく40代のカンナ。事故死してしまう彼の未来を変えたい。過去が変われば未来も書き換えられることを知ったカンナは、思い至る。わたしたちは結婚して、15年後にあなたは死んだ……だったら答えは簡単。
駈への想いとともに、行き着いた答え。
わたしたちは出会わない。結婚しない。
たとえ、もう二度と会えなくても―― 。  

引用:映画『ファーストキス 1ST KISS』公式HP 

坂元裕二の作品が描く「男女のすれ違い」は、他の恋愛ドラマとは決定的に違う。
多くの恋愛映画やドラマは、「運命的な出会い」「劇的な衝突」「感動的な結末」という三段構成で展開する。しかし、現実の恋愛はそんなに派手なものではない。むしろ、日常の中のささいなズレが積み重なり、気づけば取り返しのつかない距離を生む
――坂元裕二が描くのは、まさにそうした「静かなすれ違い」だ。

きっかけは本当に小さなこと。
硯(すずり)駈(かける)と硯(すずり)カンナは、それぞれ違う世界に生きていた。
恐竜の研究に没頭する駈と、デザイナーを目指すカンナ。
ピーナッツ入り柿の種で、柿の種だけを食べたいカンナと、ピーナッツだけを食べたい駈。
違っているからこそ、ぴったりとパーツが一致する。2人だから、1袋のピーナッツ入りの柿の種を食べ終えることができる。

価値観も生き方も違うからこそ惹かれ合い、それが良い結果を生むはずなのだと結婚した2人。
だが、結婚は恋愛の延長ではなく、「生活」だ。
キラキラとしたラメ入りの世界でいるときに魅力に映っていた「違い」は、ときに「すれ違い」に変わる。

物語の中で駈は、家族を養うために恐竜の研究を諦め、不動産会社で働くようになる。
スーツを着て、くたびれた顔で帰宅し、休日には上司の接待で草野球。かつて熱中していた恐竜の本を開く時間は、もうない。

一方のカンナは、今も夢を追い続けている。駈の変化を「自分勝手」だと感じ、言葉にはしないまでも、その態度に批判の色がにじむ。

「キラキラした感情を維持し続ける」ことを幸せと考え、「変わらないこと」に努力する人間と、「現実のために変わること」を優先する人間。

この価値観のズレこそ、坂元裕二の作品が繰り返し描く「すれ違い」だ。
『カルテット』(TBSテレビ、2017年)の幹生とマキ、『花束みたいな恋をした』(土井裕泰監督、2021年)の麦と絹。
どの作品でも、お互いを思いやっているのに、その方向が少しずつズレることで、チクチクと相手の心を傷つけていく。

そしてそのすれ違いはいつしか、お互いの幻滅へと変わる。

例えば――
2人にとって大切な小説を、何気なく鍋敷きにしてしまうマキ。
お気に入りのパン屋の焼きそばパンにこだわる相手に、「スーパーで買えばいいじゃん」と口走る麦。
恐竜の研究に人生を捧げてきた駈の収集物を、「子どもっぽい」と悪気なく否定するカンナ。
ほんのささいなひと言、何気ない行動が、相手にとっては深い幻滅につながる。

「愛しているけど、好きじゃない」。

『カルテット』で描かれたこの言葉は、長く続く関係の中で、愛と恋愛感情が切り離されていく瞬間を象徴している。

本作でも、そうだった。
「仕事で忙しいんだ」「仕事って、『草野球』のこと?」「仕事だよ」「仕事じゃないじゃない」「じゃあ、上司に嫌われてもいいわけ?」
お互いに、言いたいことがある。でも、伝わらない。

駈は、カンナのため。カンナも、駈のため。
本当は理解し合いたいのに、相手の言葉の裏を知ろうとしないから、すれ違う。

坂元裕二の作品がリアルに響くのは、この「気づけばすれ違ってしまう関係」が、誰にとっても他人事ではないからだ。
いつかその綻びは、修復できない温度まで下がってしまう。

それでいて今回の『ファーストキス』では、その「すれ違い」の更に先にある夫婦の絶望について、坂元裕二が言及している。
「それはまだいいほうで、その先にはもっとひどいものがある。それは『無』だよ」

小さな衝突を繰り返し、お互いのことを諦め、干渉しあわなくなっていく。
駈は自分だけのベッドを買い、個室にこもる。
朝は別々のご飯を別々に用意して、それぞれのスマホで別の動画を見る。
悲しいのは、それが日常であるのを物語るように、完璧な動線を描いているからだ。
狭いキッチンで同時に別の行動をしているのに、2人は言葉を交わさず、きれいにすれ違う。

言葉を交わさず、二つのボールペンがただそこに無機質に存在しているような、そんな2人。
それが、長年過ごしてきた夫婦の行き着く先なのだと、カンナは言った。

「離婚」をどうでもいいものとして扱う2人

劇中、冷め切った夫婦は「離婚」を決める。
おそらく同じように無機質なすれ違いを終え、「行ってきます」も言わずに夫がドアを出た後、1人で白髪を抜くカンナ。
ふと、思い立ったように何かをラインで送信すると、すぐに通知音が鳴り、それを見て彼女は、ふっと笑う。

「そうだよね」というような、そんな絶妙な表情だった。
あのシーンの中では描かれていないが、たぶんLINEでたった1通、「離婚しよう」「そうしよう」と、2人はそんなふうに終わったのだろうな、と思う。

話し合いもなかった。ただ、2人はあっけなく終わった。

実際に離婚届を書いた日。
カンナは離婚届をコーヒーで汚し、駈は書かれた離婚届を、会社の書類が入っていたどうでもいい封筒に入れ替える。
2人にとって、2人の関係はもう、温度を持たない。お互いがお互いを諦めているのが、そこからも伝わってくる。

特別でもなく、悲しくもなく、後ろ髪も引かれず。仕事帰りに離婚届を出そうと家を出た駈はその日、電車にひかれて死んだ。線路に落ちたベビーカーをかばったためだった。

淡々と死亡届を出し、「我が身を顧みず子どもの命を救ったヒーロー」として世間から称えられる夫を冷ややかに見つめる。
「あなたの旦那さんのことをドラマ化したい。夫婦愛を描きたい」そう言われて、鼻で笑う。
「身近な人をないがしろにするのに、どうして他人を助けて、私を置いていくの? それが『夫婦愛』だなんて、ばかげてる」。
カンナはそんな思いもあってか、駈がいなくなったことを悲しむことができない。
「せめて離婚してから死んでほしかった」遺影を見て、そうぽつりとつぶやいた。

遺影は奥の部屋に仕舞い込まれる。
1日の終わりに餃子が焼け焦げたとき、彼女が戻りたいと願うのも、
駈がいた頃ではなく、「餃子が焦げる」前だった。

どうして坂元裕二はこうも、冷え切った夫婦関係を描くのがうまいのか。
私はいつもぼんやりと、「え、坂元さん夫婦も倦怠期なの?」と考えてしまって、
だけど彼が、自分の経験していないこと(例えば女性としての生きづらさとか)でさえ生々しく描いてきたことを思い出し、踏みとどまる。

そういえば、彼の脚本スタイルは「履歴書」を書くことから始めるのだ。
『脚本家 坂元裕二』(ギャンビット刊)という、私が宝物としている彼自身のことを書いた書籍の中で、彼の登場人物に関する「履歴書」を読んだことがある。
それはただの登場人物の「紹介」ではなく、1人1人の登場人物が生きてきた「人生」が描かれたものだ。
彼らがどう生まれ、どう生き、どう考えたのか。
緻密に設計してから、後は彼らに「生きてもらう」。それを見ながら脚本を書き進めるのが坂元裕二流。

だとすれば、彼の頭の中にはカンナと駈がちゃんと生きていて。
だからこそあれほどまでリアルに、「嫌な夫婦の会話や仕草」が、痛々しいほどに表現できていたのだと思う。

結末までのあらすじ。『あの1日』をやり直せば、『元の2人』に戻れるのか

本作は「タイムリープもの」という、ジャンルとしてはガッツリとしたSF作品に分類される。
しかし、そのタイムリープは決して緻密に設計されたものではなく、あくまで物語を動かす“感情的な装置”として機能する。

物理法則も論理的な因果も説明されないまま、ただカンナの想いに引っ張られるように時間が行き来する。

それが、この映画の矛盾であり、魅力でもある。
とはいえ、劇中でぼんやりと浮かび上がるルールは四つ。

  • タイムリープは、首都高速のトンネルをくぐる瞬間に、強く願うことで発動する。
  • 戻れるのは「カンナと駈が出会った日」のみ。
  • 過去の自分と遭遇してはいけない。もし同じ空間に存在すると、動悸が激しくなり、立っていられなくなる。
  • その日の22時までには、必ず未来へ戻らなければならない。

「餃子を焼く前に戻りたい。」――
強い気持ちで願ったカンナがなぜか飛ばされたのは、駈と出会ったあの日だった。
出会ったのは、キラキラした目で恐竜の話をする、「あの頃」の駈だ。
「違う! こんなに前に戻りたいわけじゃない! 私は、餃子を焼く前に戻りたかっただけなの!」
最初のうちはそんなふうに未来に逃げ帰るカンナだが、なにかと理由をつけて、過去の駈に会いに行くようになる。

ひょんなことから過去の駈とデートをすることになったカンナは、少しずつ、少しずつ、駈への気持ちを思い出していく。

「つまらないですよね。」「正しいことを話されるよりもマシです。」
「こんな話、おもしろくないですよね。」「おもしろくない話をするあなたはおもしろいです。」

15年前の駈は、今の駈とはまるで別人だった。
疲れを知らず、夢を語り、太陽をつかめると信じていた、まばゆいほどの存在。
そんな彼を見つめながら、カンナは自分が駈に恋をした瞬間を、ゆっくりと思い出していく。
一方の駈もまた、未来から来た45歳のカンナに、何度でも恋をする。
最初の頃、カンナは「未来の服」のまま過去へ飛び、現地で適当な服を調達していた。
それがいつしか、彼に会うために服を選び、メイクを直し、少しだけ背筋を伸ばして向かうようになった。

未来に戻るたび、遺影に話しかける。ほこりをかぶっていた写真を、そっと拭う。
「過去のあなたと浮気しちゃった。」
そう呟くカンナは、どこかうれしそうだった。

ある日、「いつものデート」の途中で駈と並んで座りながら、カンナが何気なく口にした「とうもろこしの皮は、つけたままゆでたほうがおいしくなるんですよ」という言葉。
駈は少し驚いたように目を瞬かせ、「へえ、知らなかったです」と素直に感心した。
その知識は、駈が死んでからカンナが知ったことだった。
その日、未来に帰ってきて、冷蔵庫に貼られてある2人の写真を見た時、カンナはふと変化に気づく。

2人でキャンプに行き、野外でとうもろこしを茹でながら食べている写真。

――ふと、息が止まる。

とうもろこしの皮が、つけたままゆでられている。
そんなはずはない。そんなはずはなかった。

駈と一緒にいた頃は、とうもろこしは必ず皮をむいてゆでていたはずなのに。
でも、写真の中の駈は、それが昔からの「当たり前」であるかのように、皮ごとゆでたとうもろこしを手にしている。

「過去に行ってカンナが起こした行動が、自分たちの未来を変えている」

そう気づいたカンナは、「それなら、駈が死ぬ未来も変えられるかもしれない」と思いつく。

タイムリープには制限がある。
けれど、出会った1日の中で何かを変えられれば――ほんの小さな選択の一つでも違っていれば――「駈が死んだ日に取った行動」も変わるかもしれない。

そうすれば、あの日、駈が乗るはずだった電車に乗らなくても済むかもしれない。
「駈が死んだ日に取った行動」さえ変えられれば、2人の未来は書き換えられる。きっと、もう一度、元の2人に戻れる。

そう確信したカンナは、必死に駈の未来を変えようとする。
遺品の中から、駈が亡くなる日に何をしていたのかを一つずつたどる。
電車に乗る前に、どこへ寄ったのか。
何を買い、どんな道を通り、駅へ行き着いたのか。

「転職した職場から帰る途中に」「コロッケを買いに行き」「予約した本を取りに行き」……。
その全てを分析し、カンナは過去に戻るたびに、小さな仕掛けをする。

ほんの数秒でも遅れさせられたら。いつもの道を選ばせなければ。
たった一つの選択が、たった一つの偶然が、未来を変えてくれるはずだから。
しかし、どれだけ必死に過去を変えても、未来に帰ればそこには変わらぬ現実が待っている。
駈の遺影が、何度でもカンナを迎え入れるのだ。

ささいな違いは確かに生まれる。
コロッケがチョコクランチになったり、立ち寄る店が変わったり。
けれどそれは本質的な変化ではなく、駈の「死」という運命だけは、かたくなに変わらなかった。
もう、どうすればいいのか分からない。

駅にたどり着くまでの駈の行動にいくら干渉しても、何の意味もないことには気づき始めていた。
絶望の中でカンナは、ふと「非常停止ボタン」の存在を思い出す。

駈は正しい人間だ。誰かが線路に落ちれば、きっと躊躇なく助けに飛び込む。
けれど、もし「非常停止ボタンを押す」という選択肢が、あの瞬間の彼の記憶に強く刻まれていたなら?

駈は、線路ではなく、ボタンへと手を伸ばしたかもしれない。
ならば、それを彼の記憶に刻むしかない。
カンナは覚悟を決める。

自分の体を使ってでも、過去の世界で駈に「非常停止ボタン」の存在を焼き付けるのだ。
頼む、ここしかない。これが最後かもしれない。
祈りながら戻ってきたカンナの耳に飛び込んだのは、過去が確かに変わったことを告げるラジオの音声だった。

「一年前にあった◯◯駅での電車脱線事故。死者60名を超える大惨事でしたね」。

居眠り運転をしていた電車が、非常停止ボタンを押されたことで急ブレーキをかけた。
しかし、制御しきれず線路を逸脱し、駅へ突っ込んだ。そして、その犠牲者の中に――駈もいた。
カンナは絶望する。そして、理解する。もう自分には、結末は変えられない。

ただ過去に戻り、虚無の気持ちでいつものデートを繰り返し、「何も変わらない未来」を作るためにやり直す。

もう、ダメなのかもしれない。未来は変わらない。

たぶん彼の「死」は、運命ではなかった。駈自身が選んだ結末だったのだ。
彼は「死んででも誰かを助ける」人間であり、それは何度やり直しても変わらない。

そんな絶望の中、未来のカンナのもとを訪れたのは「生前の駈に片思いをしていた女性」だった。
彼女は震える声で語る。
「彼、亡くなる日の朝、偶然街で会ったんです。でも、ワイシャツのえりが黄ばんでいて……。なんだか、誰にも気にかけてもらえていないんじゃないかって、悲しくなりました」。
カンナは言葉を失う。

「私と結婚していたら、あんなことにはならなかったのに……ごめんなさい、もう変えられないのに」。
彼女の涙ながらの言葉が、カンナの心を鋭く刺す。

――変えられない?
違う、変えられる。

カンナは、ふと気づく。
駈の人生をゆがめたのは、もしかしたら私との結婚だったのではないか。

もし、私たちが出会わなければ。
もし、私たちが夫婦にならなければ――駈は夢を諦めず、あんな最期を迎えずに済んだのではないか。

だったら、私たちが出会わなかったことにしよう。
駈の人生を、私の存在ごと、なかったことにしよう。
そう決めたカンナは、最後の旅に出る。

しかし、その選択は思わぬ結末を迎え、彼女はついに駈に全てを打ち明けることになる。
と、ここからの詳細は実際の映画を見てほしいのだが、結末は「切ないハッピーエンド」だったと解釈している。

結末ではなく、「そこに至るまでの経緯」を変える

駈の根本的な性質は、やはり変わらなかった。
彼は「死んででも誰かを守ること」を、何度だって繰り返す。
だから、「うれしいハッピーエンド」にはならない。

――だけど、たしかに未来は変わった。

カンナは、過去に戻ることで、ようやく駈と本音で向き合った。
「夫婦生活の中で、こんなことが苦しかった。こんなことが嫌だった。
あなたはいつも正しいことを言う。
電気を消し忘れた私の後を追って電気を消して、
愚痴に対して、『こうすれば良い』とアドバイスをする。」

「それって…間違っていることなの?」と、尋ねる駈に、カンナは答える。「全て正しい。でも、夫婦生活に『正しさ』を持ち込んだら、破綻する。あなたはついには自分1人のベッドを買い、2人は会話もしなくなる」

ショックを受け、「ごめんなさい」と泣く駈。

「あなたには、生きてほしい。
だから、私とは結婚しないでほしい。
今日、私とは出会わないで」

——カンナの切実な思い。
突如として死を宣告され、戸惑い、ショックを受ける駈。
それでも彼は、ゆっくりと、しかしはっきりと首を振る。

「きみと出会えないのは嫌だ。
多分、変えなきゃいけないのは、僕が死んだ日じゃなくて——
やり直さなくちゃいけないのは、君と過ごした15年間の夫婦生活だ」

駈は、「死にたくない」とは言わなかった。
「離婚したくない」と言った。

日々の積み重ねにしか、「未来」は変えられない

さて、先に述べたとおり、駈の運命は変わらなかった。
自分がその電車に乗れば死ぬことを知りながら、それでも彼はその電車に乗ることを選び、誰かを守り、そして、亡くなった。

――だけど、2人の未来は変わった。
映画の冒頭、駈が電車にひかれてしまうシーン。
そこで彼は、「人の人生なんて、死ぬときはチュンッだ」というような言葉をこぼす。
まるで、人生がどれだけ積み重なっても、最期の瞬間はあっけなく終わるものだと言わんばかりに。
それは「死に向き合う話」のはずなのに、どこか「死ぬときまでの人生の空虚さ」さえ感じさせる言葉だった。

――だけど、過去に戻り、「2人の生活を大事にしよう」と誓った駈の人生は、もはや「チュンッ」では終わらなかった。

2人で同じベッドで過ごし、欠点を指摘し合うのではなく愛しいこととして認めて受け入れあい、
お互いの衝突する部分は譲歩して。大事に、大事に、ほころびができないように日々を積み上げていった駈。

その先に訪れた「死」は、あっけなくも、決して空虚ではなかった。
カンナに「寂しさ」と「切なさ」を残し、そして何よりも「愛しさ」を残したのだ。

劇中で坂元裕二のセリフはこう語る。
「寂しさは、ちゃんと好きになった結果だ」

駈の人生は、誰かの心の中で「寂しさ」と「愛しさ」として、終わりなく引き継がれていく。
ちなみに、関係性を除けば未来や結末は大きく変わらなかったものの、いくつか、小さく変化した部分があった。

その中でも印象的だったのは、冒頭に登場する「冷凍餃子」の宅配シーンだ。

映画の冒頭、カンナのもとに突然、身に覚えのないクール宅急便が届く。
代引きの荷物に怪訝な顔をしながら、「これ、何頼んだっけ?」とつぶやくカンナ。
送り主を確認して、ようやく思い出す。
「あ、これ、3年前に頼んだ、3年待ちの餃子です」
そう言って、彼女は1人、うれしそうに冷凍庫へしまう。
ただ、それだけの何気ない日常の一コマ。

――そして、「変わった未来」。
突然届いたクール宅急便。今度は代引きではなく、すでに支払いが済んでいる。
カンナはまた同じように、「これ、なんだっけ?」とつぶやく。
そして送り主を見て、気づく。
「これ、3年待ちの餃子だ。……駈が、頼んでくれたんだ」

小さな違い。それだけの違い。
だけど、そのワンシーンに、確かに2人の「変わった未来」が映っていた。

たぶん、タイムリープが起こる前の2人には、もう会話がなかったのだろう。
カンナがテレビか何かで見た「3年待ちの冷凍餃子」に興味を持っても、それを「美味しそうだね」と駈に共有することもなかった。
カンナはズボラな性格だから、勢いで代引き注文をするものの、そのまま存在を忘れてしまう。
結果、3年後に届いた荷物を見ても、何を頼んだのかすら思い出せずにいた。

――でも、タイムリープが起こった後の2人は、違う。
カンナは「おいしそうだね」と駈に話す。
あるいは、2人で一緒にそのテレビを見ていたのかもしれない。
駈は、その何気ないひと言を覚えている。

「あのとき、カンナがおいしそうって言ってたやつだ」。

その頃には、駈はもう自分がこの世に長くないことを理解している。
それでもカンナのために、こっそりとネットで餃子を注文する。
代引きではなく、事前に支払いを済ませて。

また、駈は亡くなる日、「遠赤外線でおいしく焼けるちょっと高いトースター」を買ってくる。
駈は朝は和食派だから、パンを焼くことはない。

それでも、その日にはもう自分がいなくなると分かっていても、
駈は、カンナのためにパンをおいしく焼けるトースターを選ぶ。

彼が食べることのない餃子、
彼が使うことのないトースター。

それでも駈は、それらをカンナのために残す。

ただそれだけの行動に、駈の想いが詰まっている。
カンナの「好き」や「おいしい」を大切にし、少しでも笑顔の時間を増やそうとする努力。
そして、自分がいなくなった後も、カンナの暮らしが少しでも温かくなるようにと願う気持ち。
駈が最後にできた、カンナへのささやかな愛の形だったのだと思う。

けっきょく、何かを劇的に変えようとしたって、肝心なところは変わらない。
むしろ、「結末」なんて、本当はどうでもいいのかもしれない。
坂元裕二が描くのは、ただの運命のいたずらや、奇跡のような愛の物語じゃない。

大切なのは、「どんな未来を迎えたか」ではなく、
「その未来へ向かう過程で、どんなふうに愛を持って接していたか」。
この映画は、それを静かに、けれど確かに伝えてくる。

私たちはカンナのように、タイムリープなんてできない。
だからこそ、「過去をやり直したい」と嘆くのではなく、
「今、この瞬間にできること」を積み重ねていくしかない。
日々の小さな積み重ねが、後悔のない「愛した証」になっていく。
そう思えば、日々の積み重ねを大事にしなければ、
大事な人を失ったときに後悔しても取り返しがつかないということが分かるはずだ。

タイムリープの矛盾には、意味があった

ところで、本作品は「タイムリープもの」という、ジャンルで言うとけっこうガッツリなSFである。
その中で映画を見た直後は、「2人の運命を変えようとした、変えた物語」だと思っていた。
だがよくよく考えると、一見、「タイムリープを使って運命を変えようとする物語」に見えるこの映画は、本質的には「変えられないもの」と向き合う物語だったのかもしれない、と思う。
その意味では、この映画は「夫婦関係における大切なこと」を伝えてくれる作品だった。
とはいえ、どうしても引っかかったのが「タイムリープ」の設定の甘さだ。

「え? そこは変わるのに、ここは変わらないの?」
「この行動は影響を与えるのに、あれは無理なの?」

そんな疑問が次々と浮かび、正直、集中が途切れる瞬間もあった。
けれど、よく考えてみると、それ自体が本質じゃない気もする。

そもそも「タイムリープが起こる」ということ自体、非現実的な設定なわけで、
カンナはその不可解な現象を「よく分からないけど、そうなっているからそうなんだ」と受け入れ、
未来を変えるために動き続ける。それはある意味、現実的な態度とも言える。
ただ、坂元裕二がそんな「意味のない矛盾」を放置するとも思えない。
むしろ、このタイムリープの設定そのものにも、意図があるのではないかと考えたくなる。

劇中で唯一語られる「時間」の説明、それは「時間はミルフィーユ」というものだ。
時間は途切れたり消えたりするものではなく、未来と過去がミルフィーユ状に積み重なっている。
今この瞬間にも、どこかの世界に赤ちゃんの自分がいて、どこかの世界におばあちゃんの自分がいる。

この理屈を当てはめると、「過去の自分と出会ってはいけない」という設定にも納得がいく。
「過去に戻る」というよりむしろ、「パラレルワールドへ行く」に近い発想なのかもしれない。

と、なると、である。

全てを打ち明けて、「未来を大切にしよう」と行動を変えた駈が大切にしたのは、タイムリープ先で出会った「若い頃のカンナ」なわけである。
けっきょく、「駈を救うために何度もタイムリープした方のカンナ」の未来は、「駈が亡くなるEND」からは逃れられておらず、「タイムリープの事実を知り、カンナを大切にする未来の駈」はそこにはいない。

そうなるとしたら、タイムリープをした方のカンナは、遺影の前で、愛された、変化した生活を実感することができたのだろうか。記憶は、あるのだろうか。

いや、せいぜい、部屋に駈専用のベッドがなくなっていたり、
仲良さそうな二人の写真が増えていたり、
駈が残した手紙があったり、
パンをおいしく焼くためのオーブンが置かれていたり——
そういう「物質的な変化」が目に見えただけではないだろうか?
けっきょく、「未来の駈」は直接そこにはいない。

「駈がカンナを大切にしようと決めた未来」は、
彼女が生きている世界とは別の「層」に積み重なってしまったのだ。

それを考えたとき、最後に感じた「日々の積み重ねを大切にしなければ、
けっきょく、大事な人を失ったときに後悔しても取り返しがつかない」というメッセージの重みが、
さらに深くなるような気がした。

最後に

最後に、「長く付き合った夫婦」に関する坂元裕二節の中で、最も心に残ったセリフを紹介したい。

「恋愛感情と靴下の片方は、いつかなくなります」.


これだけ聞くと、まるで結婚生活には希望なんてない、と言われているように感じるかもしれない。
でも、私はそうではないと思っている。
というのも、劇中でカンナは、駈の靴下を何度も自然に、勝手にはく。
まるでそれが当然のように、共有物として扱うのだ。
靴下は、確かに片方がなくなりやすい。
でも、だからといって生活が成り立たなくなるわけじゃない。
新しいものを足したり、一緒に暮らす誰かのものを借りたりしながら、何となく補っていく。

けっきょく大事なのは、「ずっと同じものを大切に持ち続けること」ではなく、「日々を心地よく過ごすために、無くなっても、お互いが何で、どう補い合うか」ではないか。
足りなくなったら、分け合えばいい。なんなら、なくなってしまっても、心地よさが保てるならそれでいい。
それって、結婚における恋愛感情も同じな気がする。

長く一緒にいれば、最初のようなときめきは、いつか薄れていく。
でも、2人の関係は「なくなったら終わり」じゃないのだ。
愛の形は変わっても、支え合いながら続いていく。
そうすれば、最後にそれは、生きた証になる。

『ファーストキス 1ST KISS』
きゅんきゅんしたい人も、ズキズキしたい人も、感情を揺さぶられたい人にも。
もれなくおすすめの映画だ。

yuzuka