『でっちあげ〜殺人教師と呼ばれた男〜』は実話。ネタバレ解説|元ネタ事件の全貌とあらすじ

2025年6月27日に公開された映画『でっちあげ〜殺人教師と呼ばれた男〜』。
主演は綾野剛、共演に柴咲コウ。そしてメガホンを取るのは、あの三池崇史監督。
重厚なキャストとともに送り出された本作は、その不穏な予告映像からすでに多くの関心を集めていたが、その物語が実在の事件をベースにしているという事実が明らかになることで、本編公開前から人々の背筋を凍らせることとなった。
原作は福田ますみによるルポルタージュ『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』。映画はこのノンフィクション作品をもとに、いかに人々は“つくりあげられた物語”によって破滅へ導かれるのかを描き出していく。
この映画の内容は、誰にとっても他人事ではない。
そして、真面目に、健気に、誠実に生きてきた人ほど、ある意味で「加害者」にもなり得るし、同時に「被害者」にもなり得るという現実を、突きつけてくる。私にとってこの映画は、優れた映像作品であると同時に、極めて優秀な教材でもあったと感じるのだ。
というのも、実際に私自身、過去に「加害者」になりかけたことがある。
「正義」や「被害感情」に支配されて、誰かを一方的に糾弾し、悪として物語を構築しそうになったことが私にはあるし、そして多分あなたにも、ある。
今回の記事では、「でっちあげ〜殺人教師と呼ばれた男〜」のあらすじを、モデルになった実際の事件の内容と重ねながら解説していく。さらに、私が過去に経験した「でっちあげ事件」のことも振り返りながら、この映画を観た皆さんに、もう一段階深い震えを感じてもらえるような時間を提供したいと思っている。
※この先にはネタバレが含まれます。この映画、めちゃくちゃ面白いので、まずは劇場でご覧になってからこの考察を読んでいただくことをおすすめします※
【ネタバレあらすじ】2人の証言から見えてくるのは、「全く違う」それぞれの人物像
まずはこのテザー映像を見た上で、公式HPに掲載されているあらすじを読んでいただきたい。
2003年 小学校教諭・薮下誠一(綾野剛)は、保護者・氷室律子(柴咲コウ)に
児童・氷室拓翔への体罰で告発された。
体罰とはものの言いようで、その内容は聞くに耐えない虐めだった。これを嗅ぎつけた週刊春報の記者・鳴海三千彦(亀梨和也)が”実名報道”に踏み切る。
過激な言葉で飾られた記事は、瞬く間に世の中を震撼させ、薮下はマスコミの標的となった。
誹謗中傷、裏切り、停職、壊れていく日常。次から次へと底なしの絶望が薮下をすり潰していく。一方、律子を擁護する声は多く、”550人もの大弁護団”が結成され、前代未聞の民事訴訟へと発展。
誰もが律子側の勝利を切望し、確信していたのだが、法廷で薮下の口から語られたのは「すべて事実無根の”でっちあげ”」だという完全否認だった。 引用:映画「でっちあげ〜殺人教師と呼ばれた男〜」公式HP
日本で初めて、教師による児童への体罰が「いじめ」として認定された実際の事件をなぞり、本編は進行していく。
「殺人教師」という強烈なキャッチコピーとともに、加害教師として実名報道され、自宅までもが晒された男・薮下誠一を綾野剛。そして、それを告発した、被害児童・氷室拓翔の母親である氷室律子を、柴咲コウが演じるのだが、本編中で律子が主張した報道された内容は、「体罰」という言葉ではとても片付けられない、目を覆いたくなるような内容だった。
ちなみにこのあたりの描写は、ほぼノンフィクションといっても過言ではない。実際に起きた事件のなかで、当時「『死に方教えたろうか』と教え子を恫喝した史上最悪の“殺人教師”」という週間文春の実名報道記事を皮切りに連日のように全国のワイドショーで取り上げられ、報道された内容をほとんど相違なく再現されており、その中で明らかにされた体罰の内容は、誰が見ても「やりすぎ」「狂気的」と映るものばかりだった。以下は、実際の報道にあった「体罰の内容」の一部である。
教諭は、男児が10秒以内に片づけられないと、ランドセルや学習道具をこれ見よがしにゴミ箱に捨てたり、自分が考え出した次の「5つの刑」の中から1つを男児自身に選ばせて、虐待を加えた。
アンパンマン=両頬を指でつかんで強く引っ張る。あるいは両拳を両頬に思いきり押しつけ、ぐりぐりと力を込める。
ミッキーマウス=両耳をつかみ、強く引っ張り、体を持ち上げるようにする。
ピノキオ=鼻をつまんで鼻血が出るほど強い力で振り回す。
アイアンクロー=手のひらで顔面を覆い、指先に力を入れて顔面を圧迫し、そのまま突き飛ばす。
グリグリ=両拳でこめかみを強く押さえ、さらにぐりぐり力を込める。
そして、こうした一連の行為を、教諭自身が「10カウント」と呼んでいた。
男児がやむなくピノキオを選ぶと、教諭は男児の鼻を強くつまんでその身体を力一杯振り回した。そのため男児は鼻から大量の出血をし、洋服を血だらけにして帰宅した。ミッキーマウスを選んだ時は、男児の耳をつかんで乱暴に上に引っ張り上げたため、両耳が無惨に千切れて化膿するほどだった。これらの10カウントは、帰りの会の時、他の児童全員の前で毎日のように行なわれた。
しかも教諭は、これらの刑を実行する時、ニヤニヤ笑いながら、「穢れた血をうらめ」などと聞くに耐えない罵言を男児に投げつけていたのである。虐待を免れようと男児が必死に片づけても、わざとカウントを早くして、時間内に絶対間に合わないようもくろんでいた。
この凄惨な虐待によって男児は、鼻血や耳の怪我の他にも、口の中が切れたり、口内炎ができたり、歯が折れる、右太股にひどい打撲傷を負うなど、連日傷だらけになって帰宅した。引用:でっちあげ―福岡「殺人教師」事件の真相―福田ますみ/著
大量に出血するほどの体罰に加え、差別的な発言によって精神的にも追い詰め、そして最後には「生きてる価値がないから、死に方を教えてやる」と言い放つ──。劇中では、そんな薮下が生徒の腹を蹴り上げ、生徒が吐血する場面までが描かれる。
映画は冒頭から、こうした“事実として報道された”衝撃的な描写を一切ぼかすことなく提示してくる。見ているこちらが思わず目を背けたくなるような、そんな息苦しさを伴う場面が続く。
実際、映画館で観ていた私自身も、あまりにも酷いその「体罰」の描写を、正面から直視することができなかった。
私は一児の母でもある。もしも、もしも自分の息子がこんな目に遭ったとしたら──そう想像した瞬間、胸の奥からふつふつと、抑えようのない怒りと、正義感が湧き上がってくるのが分かった。
「こんな教師がいたら、絶対に許さない」
そして当然、その報道を受けた世間の反応も同じだった。
「殺人教師」の烙印を押されたその瞬間から、彼、薮下誠一の人生は一変する。
彼を追い詰めるのは何も、氷室一家や度重なる報道だけではない。世間の、周囲の、そして私たち一人ひとりの中にある「正義」という名の感情こそが、加速度的に彼を押し潰していく。
「モザイクを剥がすべきだ」とコメントするコメンテーター。
子どものいる家の前に、容赦なく張り込む記者たち。
名前や住所、卒業アルバムまでもがネット上に流出し、掲示板は日に日に過熱していく。
やがて家の外壁には、「殺人教師」「死ね」といった手書きの誹謗中傷が、いたるところに貼られるようになる。
「罪なき子どもへの暴力」というセンセーショナルな題材は、それを目にした人々に、猛烈な正義感を芽生えさせるには十分だった。
徹底的に償わせるべきだ。禊が終わるまで、いや、決して終わらせてはならない。
彼は、何をされても当然。──なぜなら、「殺人教師」なのだから。
映画でも、それから実際の事件でも、加熱する報道の中で教師側の主張はほとんど取り上げられなかった。それどころか、ごく一部のメディアが教師側の主張に触れようとすると、「殺人教師の肩を持つのか」と、逆に批判を浴びることさえあった。
疑いようのない「悪」と、それを成敗しようとする群衆。そこに裏どりは無いが、「感情」があり、「子供」がいる。
もしも当時その報道を私が見ていたとしたら、直接的な行動は起こさないにしろ、あの頃の名もなき群衆と同じように、「成敗するべきだ」という気持ちにかられていたかもしれないな、と思う。
さて、映画の冒頭で薮下への怒りのボルテージが一気に高まり、演じている綾野剛のことすら嫌いになりかけた、まさにその頃。 この映画の本当の恐ろしさは、実はそこから始まる。
物語は、そこから少しずつ、少しずつ、本来の意味での「真実」に近づいていく構成になっている。そして、そこで重要な鍵を握るのが、この記事の冒頭でも触れたあのテザー映像だ。
映画を観ている私たちは、当時の群衆と同じように、まずは「氷室律子の視点」で薮下を“最低の加害者”として受け取る。
だが、やがて現れる「薮下の視点」によって、その認識が静かに、しかし確実に揺さぶられていくのである。
どこにぶつけていいかわからない怒りが、自分の中で方向を変えていくその感覚。信じていた“正義”が音を立てて崩れていく、その瞬間を私たちは体感することになる。
三池監督のこの構成と演出、そしてそれを完璧に表現しきった役者陣の芝居は、さすがとしか言いようがない。
観る者の感情に「印象操作」が重ねられることで、自分の中の“殺意にも近い正義感”が、どれほどあっけなく他人の言葉に引っ張られ、簡単に向きを変えてしまうのかが、手に取るようにわかる。
それは、自分自身の弱さと向き合わされる、静かで残酷な経験だ。
そして、映画のラストでは、ついに突きつけられる。自分の中にあった“怒り”や“悲しみ”、そして“正義感”が、いかに脆く、そして都合よく構築されていたかを。
この映画は、ある意味で観る者の「感情」を弄ぶ。けれど、それは決して悪質な仕掛けではない。
むしろ、“感情”というフィルターそのものを揺さぶることで、私たちにこう問いかけているのだ。
「あなたの“真実の見極め方”は、本当にそれで正しいのか?」、と。
ちなみにこの映画の面白さ──と言ってよいのかはわからないが──は、公開前に話題になったこのテザー映像とあらすじを見れば、ひと目でつかめると思う。ここに、この映画の本髄が詰まっている。
このテザーでは、この事件の発端となった「あの夜」に起きた出来事をそれぞれの視点から語った場面が映像として再現されており、本編ではこの映像がそれぞれが絶妙なタイミングで、私たちに提示されることになる。
「あの夜」とは、薮下が、氷室家に家庭訪問へ訪れた日。
家庭訪問とはいっても、それは冒頭から異様な空気をまとっている。この映像は夜の20時頃という非常識な時間。しかも土砂降りの大雨のなか、薮下がびしょ濡れで氷室家を訪ねてくるところから始まるのである。
ここで注目したいのは、綾野剛の演技力だ。同じ「雨に打たれながら保護者宅へ向かう背中」でも、その表現力により、それぞれの想像上に存在する薮下という人物が、まったく別の人間に見える。
【ネタバレあらすじ】氷室律子側の供述
氷室律子が語るその日の夜の薮下は、「異様」としか言いようがない。
降り頻る雨の中、焦る様子もなく雨に打たれ、不気味に真っ直ぐ被害者宅へ向かう薮下。玄関へやって来た薮下に対し、律子は申し訳なさそうにねぎらいの言葉をかける。しかし彼はくい気味に目も合わせず、「正直気分が悪いです」と呟くだけ。面食らう律子。スリッパを差し出しても無視され、薮下はびしょ濡れの靴下のまま玄関をずかずかと踏み入り、家の中へ入ってくる。おどおどと気を遣いながらケーキやコーヒーを振る舞おうとする律子。薮下はそれにも目もくれず、突然「本題に入ります」と淡々と話し始めるのだが、そこで開口一番で出た話題もまた衝撃だった。
「拓翔くんはADHDですよね。注意欠陥型多動障害。そのせいで、他の生徒に迷惑ばかりかけています」
発達に関する話題は教育現場において、踏み込むのに非常にセンシティブな話題である。しかし薮下に、配慮はない。相手の反応を気にも求めず、あろうことか拓翔が「いかに何もできない」かを、律子に説明する。当然、薮下の発言に動揺する律子。平謝りするしかない。
「家でも気をつけて見るようにしているのですが…すいません」
やっとの思いで差し出したコーヒー。
薮下はそれさえも、「インスタントは飲めません」と、手をつけようともしない。
律子の供述上にいる薮下は、絵に描いたような「嫌な男」で「異常者」だ。失礼な言動を重ね、少しずつ見るものを不快にさせるような雰囲気を身に纏っている。
極めつけには強烈な「差別発言」である。拓翔の赤みがかった地毛の話題になり、それがアメリカ人である律子の親族由来だと聞くと、薮下は鼻で笑ってこう言い放つのだ。
「あぁ、だからか。拓翔くんは純粋じゃないんですね。太平洋戦争を起こしたアメリカの血が混じってる。穢れた血だ」
その言葉に狼狽し、「それは差別ではないんですか」と問う律子に、薮下はバカしたように、さも当然かというようなトーンでこう返した。
「差別?悪いですか?僕だって人間です。教壇の上でこんなことを言ったらまずいかもしれませんが、誰にだって差別心はありますよ」
実はここも実際の報道にある内容と、ほとんど同じ演出がほどこされている。
応対した母親に、「○○君は純粋ではないんですよね」と切り出した。そして、男児の曾祖父がアメリカ人(朝日新聞などの第一報では、「母親の曾祖父が米国人」)であることを聞き出すや、「○○君は血が混じっているんですね」と言い、延々とアメリカ批判を展開した。
あまりのことに母親が、「それは差別ですか。学校では差別はいけないと教えているのではないですか」と抗議すると、「私も人間ですから」と開き直り、「建て前上、差別はいけないことになっているが、ほとんどの人間は心の中で差別意識を持っていますよ」と言った。
そして、あろうことか、「日本は島国で純粋な血だったのに、だんだん外国人が入り穢れた血が混ざってきた。悲しいことに、今では純粋な日本人はずいぶん減っている」と、差別意識をむきだしにした“演説”を3時間もまくし立てた。でっちあげ―福岡「殺人教師」事件の真相―福田ますみ/著
この夜のあとに「体罰」や「いじめ」が始まった──それが律子の訴えであり、この映画で最初に私たちの中に形成される薮下像である。彼女の言い分が本当であれば、彼は確かに、救いようの無いほどに最悪な男だ。
【ネタバレあらすじ】薮下誠一の供述
一方、薮下が語る「あの夜」は、氷室律子が語るそれとは全く異なる「やばさ」が際立っている。
薮下側の記憶はまず、その夜に突然かかってきた一本の電話から始まる。仕事を終えて家族と団らんの時間を過ごしている最中、自宅にかかってきた電話の相手は氷室律子だった。
「本日の家庭訪問はどうなりましたか? 仕事を休んで待っていたのですが」
慌ててスケジュール帳を確認する薮下。彼の記憶では、氷室家の訪問は律子からの申し出で日程変更となったはずだ。実際、手書きのスケジュール帳にはその旨が記されている。それを見て「やっぱり……」と呟きながらも、丁寧に説明する薮下。だが、律子は納得しない。
その場を穏便に収めようと、「すみません、僕の勘違いだったかもしれません。あらためて都合の良い日に設定させてください」と頭を下げるが、律子はここでまさかの言葉を返す。
「せっかく時間を作ったので、今から来てください」
時刻はすでに夜の20時をまわっている。家庭訪問としては非常識な時間帯だ。だが、律子は一歩も引かない。結局断ることができない薮下は、冷たい雨の中背中を小さく丸めて小走りで、氷室家へと向かうことになる。彼は、自分の身を守るために「とりあえず相手の要求を飲んで、その場を納めようとするタイプ」の、ある種の「優しさ」を持った人間だ。
氷室家に着いた薮下は、申し訳なさそうな笑顔で「雨でびしょ濡れになってすみません」と声をかける。その薮下の前に、タオルをぬっと差し出す律子。受け取る薮下。すすめられたスリッパを素直に履いて室内へはいるのだが、ここで、柴咲コウの芝居と三池監督の演出が冴え渡る。
律子の主張のなかにいた彼女自身は、人当たりが良いにこやかな子ども思いの優しい母親だったはずだ。しかし、薮下の記憶の中での彼女は、まるでアンドロイドのように無表情かつ無機質で、感情の読み取れない“虫”のような、不気味さをまとった存在として描かれている。
氷室律子の記憶の中では、薮下が「異常」だった。だが、薮下の記憶の中では、あきらかに「異常」なのは氷室律子のほうなのである。
また、証言の節々も食い違う。例えば「ADHD」の話題を切り出したのは、薮下ではなく律子だった。「何かご迷惑をかけているのでは」と聞く律子に、薮下は頭をひねり、「今のところは大丈夫ですよ」と答える。薮下の主張の中で、彼は生徒を批判するようなことは何ひとついわない。
また、氷室家の血縁ルーツについての話題も、律子の自慢話から始まったものだった。
「祖父がアメリカ人なんですよ」あきらかにステータスとしてそれを語っている律子に、薮下は(おそらく)気を遣って、感心したようにこう告げる。「ああ、だから。血がまじっているから、拓翔くんは目鼻立ちがはっきりした、綺麗なお顔をされているんですね」確かに若干の失礼さは滲んではいるが、おそらく彼に悪意はない。そして、自覚的な「差別心」もないように聞こえる。
ひたすら気を使う薮下と、不気味な律子。
結局「家庭訪問」は、そこから23:00頃まで続いた。
飲み終わる度に並々にツガれるインスタントコーヒー。断れない薮下は「これを飲んだら最後に」と良いながら、結局律子の自慢話に長々とつきあった結果、帰宅が深夜になったのだ。
捻じ曲げられていく「真実」
騒動は、この家庭訪問のあとから急激に展開していく。
律子が学校に押しかけ、「差別を受けた」として強く訴えたのだ。加えて彼女は、「家庭訪問のあとに、体罰が行われた」と、記事内で述べたような「激しい暴力」を報告した。
「担任を変えてほしい」との要望に、校長と教頭は焦る。
(この2人が本当にポンコツすぎて、見ていてイライラさせられる)
当時は、今のように“モンスターペアレント”という言葉もまだ存在していない時代。
保護者の言い分は“絶対”という空気が、今以上に強かった。教師が反論しにくい状況。
そして、何より問題だったのは、「波風を立てたくない」という上層部のことなかれ主義だ。
校長に呼び出された薮下は事実確認をされ、焦る。寝耳に水である。
「そんなことはしていない。やるわけがない」「本当にそんなことを、氷室さんが言っているんですか?」
混乱する薮下に、校長教頭は「とりあえず謝罪しろ」と圧をかける。
(何度もいうがまじでイラつく)
「やっていないことは認められません」と答える薮下に、校長がしつこく食い下がる。
「でも、“血”の話はしたんだよな?」
薮下は記憶をたどる。──確かに、言った。
「ハーフだから目鼻立ちが綺麗だ」というような話を、軽い雑談のつもりでしてしまった。
それはたしかに、“血”の話をしたと言えば、したことになる。
「……したかもしれません」
教頭は、落胆の色を隠さず「したんだ」と呟く。その言葉が、罪悪感を湧かせる。
続けて校長が問う。「体罰は一度もなかったのか?」
薮下は考える。律子の言うような、暴力的な体罰は一切行っていない。
いじめもしていない。──だが、頭をよぎる記憶がある。
ここで明かされるのが、「拓翔は、問題児だった」ということだ。
律子の記憶で方られる拓翔は優しく健気で素直なこども。
しかし実際の拓翔は大人のいうことを聞けない、暴力的な生徒だった。
ここでまた、視聴者である私たちの記憶が書き換えられていく。
頭の中にいた「無垢でかわいそうなこども」が「生意気な問題児」にすり替わり、事件の印象がまた、がらりと変わっていく。
話は戻る。
クラスメイトに繰り返し暴力をふるう拓翔。何度言ってもやめない彼に、薮下は最後の手段として、手の甲で頬を軽くぶつけた。 「これ、痛いだろう? 拓翔がやってるのは、こういうことなんだ。暴力は、人を傷つけるんだよ」
あれは、教育のつもりだった。一度きりの、手段として。
でも──たしかに、触れた。叩いたとも言える。「叩いていない」と言い切るのは、嘘になる。
「体罰なんてしていない。でも……叩いたかもしれません」
その答えに、教頭はまたため息をつく。
「体罰……したんだね」
うな垂れる薮下に向けて、決定的なひと言が落とされる。
「このままでは、保護者が“告発する”と言っている。担任を続けたいなら、この場をおさめるために謝りなさい。反論はするな」
教師は続けたい。
理不尽だと思いながらも、「とりあえず相手のいうことを聞いてその場を収める」癖のある薮下は氷室家に謝罪し、保護者会でも頭を下げ、生徒たちにも謝ってしまう。
そしてそのとき、体罰の存在や差別発言の存在を、結果的に「認めて」しまうことになる。
のちに裁判となり、あのときの「謝罪」が、決定的な“証拠”として使われることになるとも知らずに。
後に薮下はこう語っている。
「ことを荒立てないために謝った。裁判になるとわかっていたら、絶対に、事実に屈したりはしなかった」
「真実」だけで「過去」は塗り替えられない
ここからの結末は、是非劇場でごらんいただきたい。
負けると思われた裁判で、少しずつ事実が明るみになるさまには目を奪われる。
しかし現実として思うのは、例え法のもとに争い、身の潔白が証明できたとしても。その事実は大抵ひっそりとしており、印象を作り上げてしまった過去を完全には消せない、ということだ。
本人も、家族も。失った時間と傷ついた心、それから一度崩れ落ちた信頼さえも、「事実」だけで全てを塗り替えられるほど、世の中は美しくない。
誰がそれを償ってくれるだろうか、と考える。
多分、誰も償ってはくれないのだろう。
過去の「でっちあげ」未遂を振り返る
この記事の冒頭で、「この映画は誰にとっても他人事ではない」と書いた。
かくいう私自身も、この映画を観ながら、ある出来事を思い出していた。
それは、私が“誰かを社会的に抹殺しようとする側”に、知らず知らずのうちに立ちかけた日のこと。 あの日のことを、ここで振り返りたいと思う。
ある日、親しい女性から電話がかかってきた。
受話器の向こうの声は震えていて、今にも泣き出しそうだった。
「どうしたの?」と尋ねると、彼女はこう言った。
「彼氏に暴力を振るわれてる。……今から死のうと思ってる」
昔から暴力はあったらしいが、ここ最近はその度合いがひどくなっているという。
恐ろしくなった彼女は、飼い猫二匹を連れて家を飛び出し、街を彷徨っていた。
私はすぐにタクシーを飛ばして、彼女のもとへ向かった。
実際に会ってみると、腕には強く掴まれたような赤い痕、身体のあちこちに古いアザ。
小さな子猫は震え、キャリーの中でぐったりしていた。
私は彼女を静かな公園に連れていき、とにかく話を聞いた。
「猫がおしっこを漏らすまで殴る」
「キレるとドアを壊して“死ね”と怒鳴る」
「追い出したら、深夜に1時間以上ドアを叩かれて、チェーンを壊されそうになった」
「家族に相談しても、信じてもらえない。もう心が壊れそう」
ひとつひとつの言葉が、胸に突き刺さる。
そんな話を前に、私は完全に“信じる側”になっていた。
やがて彼女は、「告訴したい」と言い出した。
あざの写真、ドアを蹴る音の映像、「死ね」と言われた録音、LINEのやりとり──
証拠はすべて揃っているという。
「まずは接近禁止命令をとって、それから訴えたい。お金がほしいんじゃない。彼の社会的地位を奪いたい。暴力をふるう人間が、何事もなかった顔で働いてるなんて、許せない」
証拠を確かめようとしたが、彼女は過呼吸を起こしてしまい、LINEの一部と、彼の写真だけを確認した。そこには、サーフィン好きな美容師の男性。正直、その“男らしい”外見は、私の中で「殴ってもおかしくなさそう」という偏見と結びついてしまった。
このか弱い女性と震える犬に、そんなことをするなんて──
私は彼女をなだめ、警察へと連れていった。
しかし警察では、たらい回しにされた。
「管轄ではない」「この課では対応できない」「証拠が確認できなければ動けない」
怒りが湧いた。目の前にこんなに苦しんでいる女性がいるのに、どうして誰も動かないのか。家族も、社会も、警察すらも耳を貸そうとしないなんて。
ようやくたどり着いた地域の担当刑事は穏やかで、「やっと処罰が下る」と、私は安心した。
──だが、違った。
事情聴取を終えた彼女の元へ通された私は、そこで“全証拠”を初めて見せられることになったのだ。それまで私が知っていたのは、「彼女の言葉」と、「一部のスクショ」だけだった。全体像を知らなかった。私は、“物語の断片”だけを握りしめて、すべてをわかったつもりになっていた。
ため息を隠さない刑事に見せられたのは、私の持っていたイメージとはかけ離れた証拠の数々。
怖かったのは、彼女が語っていたことが“完全な嘘”ではなかったことだ。
たしかに彼は「死ね」と言っていたし、ドアを叩き、犬も怯えていた。
──でも、その前後には、彼女が語らなかった“もうひとつの事実”が存在していた。
実際の騒動はこうだ。
彼女の浮気が何度も続き、愛想をつかした彼は家を出ていった。
しかし彼女は寂しさに耐えられず、自殺未遂を起こす。「今から死ぬ」とかかってきた電話で彼女を心配し、親族と連絡をしながら、彼はやむを得ず家へむかった。
鍵が開かない。チェーンがかかっている。名前をよんでも出ない。
「もしかして」と思う。大きな声を出す。ドアをノックする音も、激しくなる。
ようやく開いた扉の中に雪崩れ込むように入ると、そこには包丁を持った彼女がいた。
「死んでやる」「包丁をはなして」「一緒にしね」「一人で死んでよ!」
取り押さえる中で、腕を掴む。動画に映っていたのは、その「もみ合い」の一部。
犬は、修羅場の中で驚いて失禁しただけだった。
また、録音されていた電話の中には、睡眠薬で呂律の回らない彼女の声があった。
「よりを戻さないなら殺す。社会的に抹殺する。一緒に死ね」
彼が泣きながら言った言葉──「もう、信用できない。もう、戻れない。でも、君をこんなふうにしてしまった僕には、たしかに生きてる価値がない」
彼女の未練と自殺未遂。それらが感心するほど巧妙に、「彼が暴力的に“死ね”と言った」証拠として切り取られていた。
そのうえ、彼女はそれを「本当」だと信じている。
彼女は、自分の中で小さな出来事をつなぎ合わせ、
“物語”を編み上げていた。そしてその物語を、心の底から“真実”だと信じていたのだ。
そして私は、そんな彼女の姿をみて、伝えられた内容を一瞬で信じた。
物語は、すぐに私にも感染していた。
それは、たしかに現実の断片を含んではいた。彼にも悪いところはあったのかもしれない。
それでも、彼に社会的な禊を与えるに匹敵するほど「悪質な行為」は、どこにも見当たらなかった。
最終的にその日接近禁止命令は出たものの、告訴は難しいと判断された。
家まで付き添い、憔悴しきった彼女に「何かあれば電話するように」と伝えた。
結局その後彼女は彼の勤務先に電話をかけ、上司に「DVの被害に遭っている」と伝えたという。彼は職場にいられなくなり、辞職したらしい。その話を、随分とあとになってから聞いた。
彼女の話によれば、彼の味方をする人は誰ひとりとしていなかった。
その事実が彼女の作り上げた事実を、彼女の中でより強固なものとしているように思えた。
しかし、当たり前なのだ。こんな出来事に、誰も関わりたくはない。
ましては被害者の言葉を否定して、自分が“加害者側”に見られるリスクを負うよりも、
誰もが“ヒーロー”でいることを選ぶのは必然なのである。
自分はどうするのが正解だったのだろうか。
一方的な「正義」を信じて一瞬でも肩を貸しかけた、私自身に、深い後悔が残った。
映画「でっちあげ」を通して感じる、「ヒーローになること」のおそろしさ
改めて、この映画が私たちに突きつけてくる、いちばんの問いとはなんだろう──そんなことを、私はずっと考えていた。
人の言葉を、あまりにも簡単に信じてしまうことの危うさだろうか。
見えない場所から、誰かを玉砕してしまうことの恐ろしさだろうか。
それとも、波風を立てないために「とりあえず謝っておく」ことが、いつの間にか習慣になってしまうことへの恐怖だろうか。
たしかに、それらもすべて、この映画を通して私に突き刺さったメッセージだった。
けれど、やはり私が何より伝えたいのは──
「ヒーローになることの、恐ろしさ」だ。
“正義”というものは、こんなにも危うく、こんなにも残酷で、そして、こんなにも甘美である。
人はときに、自分の感情にとって都合のいい筋書きに、“物語”を描きかえてしまう。
そしてその物語を、誰かが信じ、“救いの手”を差し伸べようとしたとき──
その人ごと、池の底へと引きずり下ろしてしまうことすらあるのだ。
ヒーローとは、そう簡単になれるものではない。
また、別の視点で考えてみる。
もしも、あなたが登場する物語の「筋書き」を、他人が勝手に書き換えてしまったとしたら?
あなたの言葉に尾ひれがつき、誤ったまま世の中にばらまかれてしまったとしたら?
たとえそれが嘘だったとしても、根拠のない噂話だったとしても──
いったん広がってしまった誤解や中傷の中で、失われた「信頼」や、回復のために費やす時間と労力は、決して元通りにはならない。
私は冒頭で、「誠実で、健気に生きてきた人ほど、加害者にも被害者にもなり得る」と書いた。
それは、まさに薮下がそうであったように。
一度でも、その“物語”に巻き込まれてしまえば──
たとえ真実があとから明らかになったとしても、
その先に待っているのは、「事件にふたをして、誤魔化しながら生きていく」だけの日々かもしれない。
加害者にも、被害者にもならないために。
私たちはこれからも、目で見たことだけを信じ、関わる人を慎重に選びながら、生きていかなくてはならないのだと、私は強く思う。
Ps.当時話した刑事さんに、「不同意性交にまつわる相談が非常に増えている」と聞かされた。難しいのはその多くが「知り合い」同士。、女性自らの意思で飲みに行き、ホテルに向かっている証拠があるということ。お酒をのんだ「勢い」で行為をした翌日に警察へ駆け込むケースが少なからずあるらしいが、その場合体液もしっかり検出され、本当に同意があったかが証明しづらいため、とてもややこしいことになるらしい。男性側はみんな寝耳に水。ではあるが、もちろん本当に辛い目に遭った女性もいるからこそ慎重に取り調べる必要がある。その中には警察側が頭を傾げたくなる事案もあるようで、対応が難しいと話していた。
誰もがスマホを持ち簡単に「でっちあげ」られる時代。誰彼構わず手を出すのは、得策ではなさそうだ。