『対岸の家事』は、対岸の火事ではない。他人事を自分事にする難しさ【ネタバレあり】

他人の痛みを“自分のこと”として受け取ることの難しさ──。

「対岸の火事」という言葉がある。他人の不幸や苦労を冷ややかに見て、「自分には関係ない」と距離を取る。その態度が批判されることもあるけれど、私たちは本当に、他人の痛みを“自分のこと”のように感じることができるのだろうか。

ドラマ『対岸の家事』を視聴して、ふとそんな疑問が湧いた。地上波だけでなく、ストリーミング配信でも累計再生回数2900万回を突破して大きな話題を呼んだこのドラマは、既婚者だけでなく、婚活中の人にも気づきを与える作品だ。

専業主婦に対する「冷たい目」

『対岸の家事』の主人公は、2歳の娘を育てる元美容師の専業主婦・村上詩穂(多部未華子)。結婚後、「自分は2つのことが同時にできない」と感じた詩穂は、美容師というキャリアを手放し、「家事を自分の仕事にする」と専業主婦の道を選んだ。

だが、夫は夜遅くまで仕事、日中は子どもと2人きり……。詩穂は、社会からも、言葉の届く人間関係からも、次第に距離を置かれ、孤独を深めていく。

そんな詩穂の前に現れるのが、隣人のワーキングマザー・長野礼子(江口のりこ)だ。

バリキャリで、かつワンオペで家事と2人の男の子の子育てもこなす礼子。ドラマ第1話では、自らと対極にある詩穂と出会い、強烈なセリフを放つ。

「絶滅危惧種だよね、この街じゃ」

この皮肉から、2人の関係は軋みながら始まる。だが物語は、どちらが正しい・間違っているという構図ではなく、「それぞれの事情と孤独」を丹念に描いていく。

まるで、相手が「対岸」にいるように──。

一方、育休中の男性・中谷達也(ディーン・フジオカ)は、厚生労働省でバリバリ働いていた堅物な官僚だ。バリキャリで海外を飛び回る妻を横目に、育休を取得して育児を“プロジェクト管理”しようと意気込む。

そんななか、詩穂と出会い「パパ友」になろうとするが、あまりにも生きている世界が違いすぎてぶつかり合ってしまう。

「専業主婦は贅沢です」

「ご主人、相当我慢していると思いますよ。かわいそう」

詩穂に対する心ない発言をズケズケとする達也。ここにも「対岸にいる人」の構図がくっきりと浮かび上がる。

そして、この構図は単なるドラマの相関図として片付けられないのではないか。

年々減少を続け、約2割になった専業主婦に対する「贅沢だ」という社会の冷たい視線が描かれている──。そう思ってしまうのは、筆者だけだろうか。

家事・育児はそんなに甘くない

専業主婦に対する否定的な見方をしていた礼子と達也。しかし、徐々に現実が押し寄せてくる。

仕事も家事も育児も完璧にやろうとする礼子は、自身に限界が訪れようとしていた。昼は仕事をして、夕方にお迎えをしてからは育児。寝かしつけをして夜に家事をこなし、深夜に持ち帰った仕事をこなす。眠りにつくのは1時か2時で、気づいたら朝を迎える日々。

朝が来るのが怖い

そんな礼子は、ある日感情を爆発させる。怪獣のごとく騒ぎ続ける息子。家事なんて、とてもできたもんじゃない。おもちゃや洗濯物で散らかり放題になった部屋で、礼子は息子に怒号を浴びせた。

「しまいなさい! 聞こえなかった? しまうの!!」

泣き出す息子。礼子は感情的になってしまった自分を認識して、夜1人になってからマンションの屋上に上がり、手すりから身を乗り出そうとしてしまう。

一方で、達也は1人娘との日々に徐々に疲弊していく。ママ友だらけの児童館でも、浮いた存在になってしまう。イクメンという言葉はあれど、存在は認められていないのか。虚しさを抱えながら、孤独を深めていく。

放っておいたら死んでしまう、話の通じない子どもを相手に毎日ずっとずーっと家事をする。そのストレスは並大抵のことではない

そうして、それぞれが抱える家事・育児が、徐々に炎上して燃え上がる様子が描かれていく。

それでも私たちは「わからない」

「甘いなぁ……」

礼子と達也を観て、私はふと頭の中でつぶやいた。

先日40歳になった私は、これまでの人生で家事や育児についていろいろと見聞きしてきた。

事あるごとに「あんたが小さかった頃は大変だった」と懐古する母。当時の話をされるたびに、男の子を育てる大変さを感じた。

母だけではない。妹の里帰り出産の際に幼かった私を預かった祖母からも「大変だった」と事あるごとに言われた(ただ、今となってはいい思い出のようだ)。

私と同年代の友人や会社の同僚たちが、家事や子育ての問題に直面して、苦労している姿を見てきた。

どっちが保育園に送り迎えをするのか。

家事の分担はどうするか。

共働きの現代、夫婦間で話し合っておかねば家庭が破綻しかねない。そもそも「ワンオペ育児」という言葉が世に広まり始めたのが2015年ごろといわれ、私たちの世代が育児に関わることが増え始めた時期と一致している。

まさに、家事が炎上し始めた世代と言ってもいいかもしれない。

と、そんなことを偉そうに、超がつくほど上から目線で語っている自分。しかし、ドラマを視聴する中であることに気づく。

「対岸の家事を『対岸の火事』のように捉えている」

ましてや、子どもがいない身でありながらそんなことを考えるなんて……なんとも恥ずかしい話だ。

しかし、このような状態は至るところで見られる。現実でも、仕事と育児を両立する人もいれば、私たち夫婦のようにまだ子どもがいない人もいる。さらに、パートナーと暮らしていない人だっている。

それぞれの立場の人が、異なる立場の人を十分に理解できているかといえば、おそらく「No」だろう。『対岸の家事』の第1〜2話では、この現実をくっきりと浮かび上がらせている。

“わからない”という前提に立つこと

『対岸の家事』の第3話以降でも、現実の家庭や夫婦で起きているであろう問題が提示されている。

不妊に悩む女性の姿や教育・習い事の問題。シングルマザーの孤独、そして親との確執など、ストレートに表現するとどれも重たいテーマばかりだ。

しかし、ドラマでは重くなりすぎないようコミカルに描いている。関心を集め、多くの人々に視聴されるに至ったのは、制作サイドの演出の効果も大きいだろう(実際、原作者も制作陣から事前に相談を受けていたそうだ)。

『対岸の家事』が投げかけていること。それは「違いを否定するのではなく、お互いわからないことを認め合う」ことではないだろうか。

お互いの状況を理解するのは難しい。しかし、わからないという前提に立ち、なにか課題があれば解決のために対話して理解し合い、少しずつ歩みを進める。

『対岸の家事』では、そのようなシーンが数多く描かれている。

家事とは、社会を映す鏡であり、そこに関わるすべての人の問題だ。

対岸の家事は「対岸の火事」ではない。

火ではなく、日常の風景であるがゆえに、見落とされやすく、語られにくく、だからこそ、見つめ直さなければならない。

理解できないからこそ、想像する。

共感できなくても、否定はしない。

そして、いつか自分がその家事の当事者になったとき、誰かの物語が、自分を支えてくれる。

『対岸の家事』を視聴して、そう信じたいと思った。

ナレソメノート 副編集長タナカ